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【聖書から学ぶ】イエスキリストも資産運用をしていた?

私は無宗教ですが、たまに聖書を読みます。

聖書には、ビジネスに役立つことが

たくさん書かれているからです。



聖書には、実は

「資産運用の大切さ」

が書かれているのを知っていますか?


私も何気なく読んでいて驚いたのですが、

実は、遥か昔、キリストの時代から

「資産運用はすべきこと」と言われていたんですね。



「資産運用はした方が良い、することは良い事である」

ではありません。


「資産運用をしない、ということは愚の骨頂である」

それくらい、強い言葉で表現されているんです。



ここから、聖書を引用しますね。


<ルカの19章11節>
※新共同訳なので訳によっては言い回しが変わります

【ムナの例え】

人々がこれらのことに聞き入っているとき、イエスは更に一つの例えを話された。
エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである。 
エスは言われた。「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった。

そこで彼は、十人の僕を呼んで10ムナの金を渡し、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った。
しかし、国民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、『我々はこの人を王にいただきたくない』と言わせた。
さて、彼は王の位を受けて帰って来ると、金を渡しておいた僕を呼んで来させ、どれだけ利益を上げたかを知ろうとした。

最初の者が進み出て、『御主人様、あなたの1ムナで10ムナ儲けました』と言った。
主人は言った。『良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、10の町の支配権を授けよう。』

二番目の者が来て、『御主人様、あなたの1ムナで5ムナ稼ぎました』と言った。
主人は、『お前は五つの町を治めよ』と言った。

また、ほかの者が来て言った。『御主人様、これがあなたの1ムナです。布に包んでしまっておきました。
あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです。』
主人は言った。『悪い僕だ。その言葉のゆえにお前を裁こう。わたしが預けなかったものも取り立て、蒔かなかったものも刈り取る厳しい人間だと知っていたのか。ではなぜ、わたしの金を銀行に預けなかったのか。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きでそれを受け取れたのに。』

そして、そばに立っていた人々に言った。
『その1ムナをこの男から取り上げて、10ムナ持っている者に与えよ。』
僕たちが、『御主人様、あの人は既に10ムナ持っています』と言うと、 主人は言った。
『言っておくが、誰でも持っている人は、更に与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる。



~ここまで~

いかがでしょうか。

これはイエス・キリストの例え話で話した、ユダヤ人のお話で、聖書に実際に書かれていることです。



すごく簡単にまとめると、

高貴な人(身分の高い人)が10人の弟子に、お金を渡して、

「このお金を商売をして増やしなさい」と言い、

素直に実践をして増やした弟子は、褒められて、ご褒美ももらえた、

一方、

商売をせず、ただ持っていただけの弟子は、怒られて、そのお金さえも没収された…

という話です。




この話でキリストが言いたかったこと、

それは、

「お金は運用しなければならない」

「持っている者はさらに与えられる、持たざる者は持っているものまで奪われる」


ということです。


これって、お金の原理原則なんですね。



お金を持った者は、これを運用しなければいけないという責任を持っているんです。

なぜならば、ただ持っているだけだと最後に全て奪い取られてしまうからなんです。



先ほど、

「ただ持っていただけで増やそうとしないことは愚の骨頂である」

と言ったとおり、


ユダヤ人の根底には、

「お金を持つものは増やさなければいけない」

という責任が生じるということが教えなんです。



持っていないものは、持っているものまで奪われてしまう訳ですから持とうとする訳です。

持とうとする努力をしない者は、

例えば、

自分は商売する才能がないからといって、

出来ないかもしれないと思って、

銀行に預けておけばよかったのにと言っているわけです。



ここのポイントは、

「お金を増やそうとする努力」

「お金を持たなければいけないですよ」

ということに言い換えて、原理原則で伝えているわけです。



今の時代でもこれは同じです。


銀行に預けていたらお金は増えますか?

増えませんよね^^;


銀行に預けてるって言うのは、聖書では

地中に埋めているのと同じなんですね。


つまり、愚の骨頂というわけです。



今自分が持っている資産を、仮に

全部~大半銀行に預けていたら取られてしまいます。

ご主人様(キリスト)が帰ってきた時、運用しようとしてないからです。


つまり、

銀行に預けておくこと=地中に埋めておく

これは同じなんですね。



いや、銀行に預けておくことは、むしろ、

地中に埋めているより悪いかもしれないです。



なぜなら、銀行に預けていると、

ペイオフをくらうと1,000万円以上のものは取られてしまいます。

それに、インフレリスクにも晒されてしまいます。


地中に埋めている分だったら増えはしないけど減りもしませんが、

銀行に預けっぱなしにしておくことで、余計なリスクに晒されてしまうんですね。



リスクに晒されてしまうという意味で、

銀行に預ける事は、主人が戻ってきた時に

全部没収されるということと同意だとしている訳です。




ちなみに、聖書が書かれたとき、

つまりユダヤ人は2000年前の話です。


2000年前には、

「お金を持ったら絶対運用しなければいけない」

ということを、ユダヤ人は徹底的に教え込まれるいたんですね。




私たち日本人、いえ、日本人に限らずほとんどの人は

「お金を持ったらため込みましょう」

「銀行に全部預けましょう」


と教えられています。


でも、ユダヤ人は全く違う考え方なんです。



だから、ユダヤ人は資産を増やし続けますし、

私たち日本人は資産を減らし続けるという、


根本的なスタート地点が違っているんですね。



これが、まず最初に

富に対する持つ者の責任という所の原理原則です。




聖書を読んだことの無い人が大半だと思いますが、

イメージでは、キリスト教の方は

「経済活動することが悪なんじゃないか」

っていう、そういう錯覚というか

誤解をしている方が多いと思います。(私も以前はそうでした)



でも、イエス・キリスト

富を持つことに対して否定的ではないんですね。


むしろ、ユダヤ人というのは

実は、富を持つことに関してはすごく積極的なんです。



2000年以上も前に書かれた聖書でも、

資産運用の重要性は、原理原則として書かれていた

といういい見本になると思います。